太和躰術協会

姜氏八卦掌

姜氏八卦掌 菫海川 – 張占魁 – 姜容樵 – 鄒淑嫻

開祖~二祖

当会の八卦掌は、開祖菫海川―張占魁―姜容樵―鄒淑嫻と伝わってきました。八卦掌には多くの流派、風格があり、第二代の各師範でも、その趣には大きな相違が見られることから、開祖が伝えたのは今の私たちが考えているような『流儀武術』ではなく、広い意味での『兵法』『錬身法』だったのではないかと考察されています。

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私たちの第二祖、張占魁老師は、若き日に河北派形意拳の鼻祖、劉奇蘭公につき深く形意拳を修め、閃電手・張占魁と噂され、大いに武名を轟かしました。

その頃、武功に秀でた武術家同士が、桃園の誓い宜しく、互いに義兄弟の契りを結んで技術を交換教授するということが大いに行われていました。一つには清朝の末期的様相に痺れをきらせた若き憂国の士の意識の高揚がありますが、この刺激が後に、中華武士会や、中央国術館のような大きな武術の統合運動という奔流になってゆくとは、この時点では知る由も無かった事だったと思います。

ところで、第二祖が刎頚の交わりを得たメンバーは、八卦掌の名人程亭華・大槍劉徳寛・張の兄弟子の単刀李存義・・・それぞれが当代一流といっても差し支えのないような名人達人ぞろいでした。特に年長の程は、最年少の張の才能を殊の外愛で、当時清朝の粛王府にて武術教頭をしていた自分の師父、菫海川に引き合わせたのです。

その折、他の兄弟たちも揃って菫師に拝師したのですが、張は生涯に渡り八卦掌の技術を特に大事にし、董師の多忙なときは兄弟子の程を代師として工夫に工夫を重ね、ついに自らの形意拳で得た勁(力の道筋)を八卦に活かし、技術の完成を見ました。 之ゆえに、研究家は当門を『形意八卦掌』と呼ぶ場合もありますが、そのような名称は他称であり、張先師は自らの技術を、飽くまでも『八卦掌』と呼んでいたそうです。

二祖~三祖~四代 鄒淑嫻老師

菫海川老公は、八卦掌を開門するにあたり、自らを第一祖として代々受け継がれてゆく漢詩形式の伝承表を製作しました。これを『字輩』とよびます。解放後は雑誌などでこの詩は公開され、機密性は薄くなりましたが、もともとはこの『字』を師匠より授かることが八卦門の正式な門人になったということであり、同時に自からが八卦門に所属しているということを証明する手段でしたので、非常に大切に扱われたものでした。。

第一代(開祖)が『海』、2代が『福』、3代は『寿』字輩です。

例えばどこか遠方に旅にでているとき、地元の武術家と問題が起こったとしましょう。そのとき相手が八卦門を名乗ったとします。もし彼が正式な字輩を知っており、こちらの方が字輩が上の場合、かれは(内行人:ネイハンレン/身内のこと)として、和議の席を設け非礼をわびなくてはならない、という一門の掟があります。もちろん相手の字輩が上の場合は、こちらが酒席を設けます。同代の場合は、双方手を引き、改めて義兄弟の契りを結ぶわけです。

当時の武術界は一般に義気を重んじていましたが、八卦門は、特にこのことに重きを置き、年齢が自分より下の人間でも、字が上位ならば叔父として尽くさなければいけません。このように、武術門派は、同門同士の争いを押さえ、結束を高めて命脈を保ってきました。

さて、二祖 張占魁公には多くの弟子がいました。韓慕侠、趙道新、王樹金など後世に名を残す優れた武術家が、その門から巣立ってゆきましたが、その中でも文武兼備の皎皎者と呼ばれ、張派の二傑と言われたのが姜氏門宗師 姜容樵公でした。

姜容樵公は武術の郷、河北省滄州の武術世家の出身。幼い時より文武に長け、特に武術は叔父や名拳師 陳玉山より秘宗門の拳術を学び、若き日にはすでに武名を揚げたといいます。後に天津に遊学中に張占魁と李存義に知遇を得、その拳の内に秘めた力に感服して形意・八卦の門に身を投じます。(鄒淑嫻師父の話では、姜公は八卦掌は主に張公に、形意拳は張・李両老師に学ばれたということです。)

成人後、その学識を買われて教職に就いた姜公は、武芸の教授を行いながら、同時に武術の理論的研究も欠かしませんでした。後に上海の地で『尚武進徳会』を発足し、武術を通じての国威の発揚に勤めました。

また、張公の伝承人として国民党張子江将軍に見出され、当時最高峰の武術人材育成機関である『南京中央国術館』にて編審所(編纂審定委員会)所長を歴任し、国術館に黄金時代を築き得たのも、その武術に対する実践と理論の両面を良く兼ね揃えた、民国中国を代表する類稀なる奇才だったからといえるでしょう。

共産革命以降、姜公は多くの中央国術館の遺士たちと共に上海を永住の土地と定め、自分の後代を託すことの出来る人材の出現を待っていましたが、遂に願い叶い、重慶出身の富戸の息女鄒淑嫻を弟子とし、後に乾女(義理の娘)として家譜に書き入れ、姜氏の門と、代々伝わる『八卦字輩』を託すことが出来ました。時は世界史に残る悪政とまで言われた文化大革命前夜、滑り込みセーフでこの技術は後世に残される機縁を得たといえます。

姜氏八掌法

張先師から八卦掌の全伝を受け継いだ姜容樵公は、その理論と技法の体系の整理に着手し、より多くの人が伝統的な八卦掌の真価を享受できるように道をつけました。

本来沢山あった錬体法、手法、招法を一つの套路(武術の型)を練磨することで効果的に身につけられるように、主題的なものと副次的なものに区分し、菫先師が重要視し、張先師が工夫した要訣である、八つの代表的な手の形(仰掌・俯掌・堅掌・抱掌・劈掌・撩掌・挑掌・螺旋掌)と八種の身法掌法(単換・双換・双撞・穿・挑・翻身・揺身・転身)、4種の歩法(起落・扣擺)、136文字の『八卦錬功歌訣』を元に編纂したものが、今私たちまで伝わっている『姜氏八掌法』一名『蘭花掌』です。(最初期の弟子の中には『蓮華掌』を名乗っている方もいるそうです。どちらも、その開掌の形態が花の開いているのに似ているところから命名したと言います。)

また、あまり知られてはいませんが、八卦2路として『八卦腿』、兵器として『八卦漏手刀』『鴛鴦鍼』が伝承されており、陳玉山伝の秘宗門に伝わる『八卦奇門』の技術にも秀でていた公は、『八卦奇門剣』『八卦奇門槍』の技法も、自らの八卦掌の拳勢の中に融和一致せしめました。実に多くの武技が、八卦・形意の理法で再編され、新たに『姜氏門八卦掌』ともいえる独特な拳風を確立したのです。

この技法体系を継承させるに足る弟子は、実際なかなか現れてはきませんでしたが、1950年代、重慶城外有数の富豪の息女、鄒淑嫻が結婚の関係で上海に居を移し、政変のため南京政府から上海の国民党関連地域に寄寓していた姜容樵公の下を、孫禄堂の徒弟 程毅如に連れられて引見されます。姜師爺と鄒師父とのひとくだりは、また別枠で書いてみようと思いますが、とにかく、この一日を境に鄒の人生は、先師の伝統を受け継いでゆくという一つの道に集約されてゆくのです。

私は、茨城県在住の山西車派形意拳の名拳師、趙玉祥老師の引見によって1995年、中央国術館に縁の深い、上海虹口区四川北路にて、文化大革命以来殆ど表に出ることもなく、知る人ぞ知る存在だった鄒淑嫻師父に面会することを許されました。
師父は上海を代表する伝統武術家による長老会『上海市掌門人会議』(一名老年武術団)の八卦門門長であり、当時は国家や上海市の体育訓練基地などで、専門の運動員のみを相手に八卦掌を教えることが多く、民間人はよほどのつてや縁がないと学べないような状態でした。幸運にも教えを受けることが出来、よろこんだのもつかの間、始めから提示される要求の高さに、私はめまいを覚えるような感覚に襲われたのを覚えています。

師曰く『八卦は歩くのが基本。とはいっても立つことも出来ないものがどうして歩けよう?』『旋力とは身体の筋肉の流れを拮抗矛盾させる様に使い、形の中に勢いを生み出す』『丹田の感覚を形成するための姿勢をとるときは、命門を開くところから開始する』

・・・私は以前より武術における成否とは、個人の身体的・精神的な資質が大きくかかわるもので、いくら真面目に取り組んでも、才能や勢いがある人間には遅れをとらざるを得ないのではないか、と思っていました。しかし、鄒淑嫻師父に八卦掌を学ぶにつれて、厳密な内功理論のある門派体系を正しく学べば、個人の心身両面の資質というものをも向上させることが出来るのではないか、と思うようになってきました。

練習すればするほど面白く、具体的な手ごたえの有る鄒師父の八掌法を学び始めて、早10年が経ちました。どこまでやっても奥が深く、まだまだ入り口に入ったばかりの感もありますが、私の故郷日本で、この素晴しい運動文化を、変質させることなく紹介してゆけることを願いながら、日々練習を楽しんでいます。

文 伊与久大吾

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