太和躰術協会

我が家の伝(つたえ)について。

我が家の伝(つたえ)について。

私が五歳の頃から祖母が礼儀作法や踊り、遊びなどのなかで、少しずつ身体や感性を作る教えを始めてくれました。

身体が極端に弱かった私は、いきなり武道なんて言われても夢のまた夢。

だからこそ憧れる、ヤマトタケルの熊襲退治、義経様の八艘跳び、鵯越の畠山、義貞公は海に剣を投じ、大楠公と南朝の双璧となり、信玄公の川中島、幸村公の十文字槍・・・寝しなの物語に心躍らせました。

いっぽう、祖母がハタキをかけながら撃ってくるのを跳んで避けたり、でんぐり返し(体転)たり、物真似をしたり、頭に湯飲みを載せてあるいたり、石を投げたり、竹を切ってきて弓を作ったり、新聞紙を丸めてチャンバラしたり、ころころと転がされたり、切腹の作法を教わったり…

いったいこう言ったことは、なんの意味があってやっているのか、何の説明もなく、ただおばあちゃんと遊ぶのが(時におっかないけれど)ただただ楽しい。

だから続いたのでしょう。

反面祖母には厳格なところがありました。
ある日、手裏剣の稽古をしている祖母に「おばあちゃんって忍者なんでしょ?」と聞いたとき、さっと顔色が変わって「滅多なことを言うもんじゃねえ。伊与久のお家は真田様の旗本だぞ。地の侍、郷士だぞ。

昔は広い領地に強い手下を一杯抱えていたんだ。こそこそとした泥棒みてえなことはしねえんだ。ヘイホウで戦ったもんなんだ!」と言って怒ったものでした。

そして内容がもう少し本格的になってきたころ「こういうもんはよう、秘密にしていねえと意味がねえんだよう。兄ちゃんが弱虫で、それで武道をやってるなんて話したら恥かしいじゃねえか。お前が大人になるまでは誰にも言っちゃいけねえよ。」とも。

そして「これは武田の御館様がこしらえたコウヨウのヘイホウだよう。普通のヤットウの武道じゃあねえんだ。これをやったから真田様もあんな少ない兵隊でたくさんの敵に勝てたんだよう。」

この時点で、私は松代に「甲陽流」なる忍者の一団が存在していたことも、自分がやっているのが、吾妻衆伝来の特異な躰術だということも理解も興味も全くと言って良いほどありませんでした。そもそもコウヨウも「紅葉かな?」くらいに聞き流していたくらいでしたから、想像がつくと思います。

今思えば祖母は私の興味を引くのに一生懸命だったのではないでしょうか。

その後15歳くらいから、祖母の紹介で密教(修験)と山修行の師である上州の行者、甲吾法眼(黒岩法印)に師事が始まってからはその秘匿性は一層厳格になってきます。

杖の使い方、歩き方、呼吸法、お経のあげ方、祝詞や結手印、この流れの歴史、符丁、地形を味方につける方法、滝行、断食、巣籠・・・

言葉少ない法印曰く「山であったことを俺の目の黒いうちに他言したら死ぬ。親に言えば家族に危難が降りかかるだろう」と。
先達は数年前に他界しましたが、今もある種のものは必要のない場合は死ぬまで他言はしないようにしようと誓っております。

昔の友人は、私が時に「山に行く」と言っていたのを覚えている方もいるかもしれません。色々なことにかこつけては外地に行ってよくわからない(修行)めいたことをやっていた時期です。ただ、ダイレクトに何があったかということは怖くて誰にも言いだせませんでした。

万事がそんな調子でしたので、もっとバタ臭い文化にあこがれて俄か「クリスチャン」になったこともありました。結局牧師さんに「武術なんかやめろ」と言われて喧嘩別れしましたが・・・(笑)

当然ジレンマもありました。

映画で見るジャッキーチェンやリーリンチェイのやっているものが光り輝いて見えていました。
「ぼくもあんな軽やかで鮮やかな技を身に着けたい!!」そんなあこがれもあって、中国の武術の師を求めました。

16歳の時、たまたま近くに蟷螂拳で高名な根本一已老師が越してらっしゃったので、一も二もなく投拝して師事を許されました。
これが私が初めて自分から「武」を志した第一歩でした。

祖母や空手を教えてくれた父も、心から喜んでくれ、その後根本老師とは家族ぐるみの交流をさせて頂きました。

時にサンデーには「拳児」が連載され、拳友たちもでき、井の中の蛙だった私もはじめて同世代の子たちと稽古する中でいろいろと学び、にぎやかな青春時代を送ることができました。

この時期が一番楽しかった。そしてこの時に芽生えた、武術への思いは、今に至るまで継続し続ける原動力になっていると思っています。

しかし私も20代。酒の味を知り、ガールフレンドができると、山との関係も自然に遠のいていきました。祖母もなにかと病気がちになり、大学を機に家を出ると、週のうち何回も顔を合わせるということもなくなっていました。

黒岩先生から連絡があっても、無視を決め込むこともあり、だんだんと疎遠になっていきました。今思えば相当にもったいなかったなあと思っていますが・・・

祖母も「技の継承」云々という意味では殆ど諦めていたのではないでしょうか。たった一人の内孫が、健康に育ってくれただけで、もう十分だったのかもしれません。

ただ「時期が来たらお前は吾妻に行って、本家や真田様のご時世にお世話になった皆様に挨拶に行くんだ」と言う言葉は、心のどこかにいつも引掛かっていました。

祖母が他界する少し前から、はや20年、私は縁を頂いて中国上海の内家拳明師、姜氏門第2代の鄒淑嫻師父について玄妙な武の技を学び続けています。

さらに古伝の小林流空手を九州の村上勝美師範に、そして運命のいたずらと言いましょうか、祖母や先達とおそらく同系の、甲陽の地の武術を宮川順心斎翁に学ぶ幸運を得ております。

これら出会いなくして、私は祖母たちがやっていたことの片鱗すら表現成しえなかったでしょうし、あの少年の日々は忘却の向こうへ追いやられていたかもしれなかったということを、この場で白状いたします。

いまご紹介しましたように、私の家の伝承と言うのは、他の立派な師範がたの保持されるような体系的なものではサラサラ無く、むしろこれから大いに整理、研究しつつ、整えてゆかなくてはならない類の、なんとも言えない雑多なものです。

今の名乗り「甲陽忍傳吾妻流躰術」も、昔からあった名称ではなく、自分の一族の出自と、同じ吾妻衆で高名だった出浦対馬殿、禰津潜龍斎殿、割田下総殿、唐沢玄播殿などへのオマージュを込めて、またちびっ子たちにロマンと夢をあたえるご当地の体育として愛される存在でありたいと、松代甲陽流宗家から「忍」の一字を頂き、現代再偏の(古くて新しい)忍術流派を形作ってまいりたいと存念しております。

運命の女神は小拙を憐れんで、これら雑多なものの集合体に、後世の人たちへ益する何らかの(筋道)をつけさせんと多くの名人に引き合わせ、生来の鈍凡を研磨して、何かしらの利器へとドロンと変化させん、と思召しておられるのでは・・・これこそが、私にとって誠の忍法だと思っております。

やみのよに くずをひろいて あけたれば よろずよにきく くにのみたから 松凬

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